イタリア旅行記3日目

ローマ→フィレンツェ(7)

サン・ジョヴァンニ洗礼堂

大聖堂の正面に立ち、わたしはその赤・白・緑の大理石で彩られたファサード─正面装飾─を見上げた。
「見事なものだなあ。ちょっと仰々しい気もするけど。なあ、みけ?」
足下に目をやると、みけは大聖堂とは反対の方を見ていた。みけの視線の先あるのは、大聖堂に比べれば小さく地味な八角形の平面を持った建築物。金色に輝く巨大な扉を擁する、サン・ジョヴァンニ洗礼堂である。
「わが輩はあれを見たい」みけは観光客の合間をすり抜け、その10枚のレリーフからなる金の扉に駆け寄った。わたしも人混みをかき分けながらみけの後についていった。
「ギベルティの『天国の門』だな」わたしはみけに、それぐらいのことは知っていると言わんばかりにこの扉の作者と題名を確認した。
「そうだ。しかし『天国の門』という名前はこの扉のタイトルというわけではなく、通称ニャのだ。ミケランジェロがこの扉を見て『こいつはまるで天国の門の様だニャア』と讃えたという話からそう呼ばれているだけなのだ」
「へえ〜。じゃあミケランジェロもここに立って、この扉を見たんだ」
「システィーナ礼拝堂の天井画には、この扉の図像からインスピレーションを受けた部分もある。近代彫刻家ロダンの『地獄の門』も、この扉を意識して作られたものだ。美術史上重要な扉だニャ。ギベルティがこの扉以前に、洗礼堂のために作った扉がそっちにある」みけは洗礼堂の横にわたしを導いた。そこにも見事なレリーフから構成された、黒い扉がはまっていた。
「この洗礼堂の扉を制作する芸術家を探すために、人類史上初のコンクールが開催された。最終選考に残ったのが、ギベルティとブルネレスキだ」
「孤児養育院を設計した建築家のブルネレスキかい?」
「そう。彼がまだ建築家になる前の話ニャ。二人ともまだ青年だった。両者の作品ともに優れていたが、15世紀初めの当時では、劇的でリアリズムに溢れたブルネレスキの作品よりも、装飾的にそつなくまとめたギベルティの方が喜ばれたのニャ ※注」みけは洗礼堂の横に建つ大聖堂の丸屋根を見上げた。「もしこのコンクールでブルネレスキが勝っていたにゃら、このクーポラ(丸屋根)は無かったかもしれない」
「え? どういうこと?」
「当時この大聖堂はまだ建造中だった。あとはドゥオモを建てるだけ、となった時に問題が発生した。クーポラの土台となる部分があまりにも巨大である上に構造的な問題もあり、当時の建築技術では建造不可能だったのだ。フィレンツェではクーポラを完成させることが出来る人物を捜すために再びコンクールを行わなければならなかった。そこで戦ったのが、ギベルティとブルネレスキだった」
「因縁の対決ってわけだな」
「ギベルティが洗礼堂の扉を作っている頃、扉のコンクールに敗れた傷心のブルネレスキは、ローマへ出てそこで古代建築に魅せられた。彫刻家から建築家へと転向していたのだ。彼はクーポラのコンクールで、当時本人以外誰にも理解できなかった全く新しい建造方法を提案した。そのアイディアはローマの古代建築にヒントを得たものだった。そして今度のコンクールではブルネレスキが雪辱を果たしたのだ」
「そうだったのか。全てはここから始まったんだな。わたしたちは今、ルネサンス史の中心地に立っているんだなあ」
わたしたちはギベルティの「第一の扉」の反対側に開いているアンドレア・ピサーノ作の扉から中に入った。入場料は5,000リラ。ひんやりとして薄暗い内部は、がらんとした巨大なひとつの空間になっている。8角錐の天井には聖書の物語が金のモザイク画で描かれていて、巨大なキリスト像が見るものを圧倒する。
「なんだか壁の汚れかたがひどいニャア」
「これから洗浄・修復するんじゃないの? ミレニアムまではまだ7ヶ月ある」

※注 資料によっては、洗礼堂扉コンクールの審査委員会は最終審査に残った二人の作品の優劣を付けることが出来ず、二人に共同製作を提案したが、ブルネレスキがそれを嫌いギベルティに勝ちを譲ったとなっている。

戻る旅行記の目次へ進む

Copyright (C) 2006 わたしとみけのイタリア旅行記. All rights reserved.